人の魂の進化って、どういうことなんだろう・・・・?

▼進化びと

進化びとは、自分を良く理解している。 

彼は、真我も自我も、共に自分であることを良く良く理解し、かつ 何が自分でないかを、良く理解している。 彼は、自分の中の条件反射を理解している。

※条件反射とは反射的に起きてくる感情や価値判断のこと。

進化びとは、自分の中の条件反射を熟知し、 条件反射という名の眠りから既に目覚めている。

▼退化びと

退化びとは、自分を理解できていない。

退化びとは、自分の中の条件反射に操られ、 覚めているつもりでも、実は眠りの中にいる。



進化びとは、他人の想念や思念に影響されても、 それが通り過ぎるに任せ、常に平穏の中にいる。  

退化びとは、他人の想念や過去の思念を 自分と思い込み、常に翻弄されている。


進化びとは、自分という幻想をほどいて神とともに在る。諸行無常、諸法無我・・・この世の全てのものは移ろい変わるものである。
その移ろい変わるものを自分のものとする、 それこそが、世の一切の苦しみの原因である。
それを理解することにより、人は平穏の中にいる。

退化びとは、本来自分のものでないものを 誤って自分のものと思い込み、 常に苦しみの中にいる。
地位、財産、名声、肩書き、能力、等々、 退化びとは、それらの中に成功や幸福があると思い込んでいるが、 実は、それらこそが、 不安や恐怖の源であることを理解していない。



進化びとは、感情に翻弄されない。 彼は、感情を、味わい、かつ楽しむ。
彼は、人に感情が必要であることを熟知し、 いたずらに否定しない。
彼が否定するのは、 溜め込むこと、抑え込むことである。

退化びとは、感情に翻弄される。条件反射のように。

彼は、ネガティブな感情を悪と思い、溜め込むがゆえに、 かえって大きくなった感情に往々にして翻弄される。



進化びとは、感情と素直に向き合うがゆえに、 いつも適切に感情を表現し、調和しながら、現実と向かい合う。
喜ぶべき時に喜び、 怒るべき時に怒り、 悲しむべき時に悲しみ、 楽しむべき時に楽しむ、 彼は、あたかも幼子のようである。

天国に入るには、幼子のようにありなさい、 と、かつてイエスは説いた。

退化びとは、内心の感情を隠している。心の中の怨み、怒り、妬み、そねみ、憤り、優越感、蔑視などの感情を隠して、表面上のおべんちゃらをつかう。だから、いつも本当の自分の心が湾曲してしまい、自分を誤魔化している。

ゆがんでしまった心のくせが自覚できていない。だから、自分と同じような性質をもった人をみると、本能的に批判して攻撃してしまう。相手が自分の映し鏡であって、相手の二重人格が他ならぬ自分そのものであると気づいていない。



進化びとは、完全な人ではない、 むしろ、彼は、不完全なひとである。そして無知であること、至らないことを知っているひとである。

自分の不完全さを認め、 素直に向き合う。 彼は、人が不完全であるからこそ、 お互いに助け合うことを、 その中から、感謝と寛容の思いが 育っていくことを、 誰よりも良く理解している。
だから彼は、助けてもらうありがたさと、 また、人を助けることの喜びとを、 ともに良く知っている。

退化びとは、完全であろうと振る舞い、 自分の不完全さと向き合わない。 ミスが発覚したときは、その虚飾のあまり、逃げる、誤摩化す、正当化する、 人のせいにする、社会のせいにする。



進化びとは、不完全さを隠そうとせずありのままである。 なぜなら、それが神の恩寵であることを誰よりも良く理解しているからである。 人が、不完全さを神の恩寵と認め、 自分と他人の不完全さに寛容となる時、 世界は平和な楽園へと変わっていく。

退化びとは、自己の不完全さと向き合わないために、 自己を実寸以上に見せかける。その仮面を維持するために、人の評価を死守するために、ありとあらゆる手段を行使する。自分より劣った人をさげすむことでひとより上にあることを確認する意識が、世の中をギスギスさせている。



進化びとは、この宇宙のすべては神の所有物だと知っている。なにもかも、自分のたましいまでも、神の所有だと。ゆえに、欠乏感がない。ゆえに、所有しようという欲が起きてこない。宇宙のすべてが自己とおなじ創造主につながっていると知っている。

退化びとは、心が渇いている。神と宇宙と自己が切り離されているから、隠れて悪を働くことも平気だ。心が渇望しているから、所有の欲がいつも渦巻いている。もっと欲しい、もっと持ちたい、人より多く、人より有利に、そんな利己的な欲望がつねにあるため、いくら所有しても満足することなく、さらに大きな渇望感を育てている。それは一見満足の階段を歩むように見えるが、苦しみの連鎖である。



進化びとは、私心がない。そのかわり、無限の奉仕の心がある。奉仕しても尽きない心の泉は、宇宙の根源である神につながっているからだ。まるで水道の蛇口が開いたかのように愛はあふれて、見返りを求めず奉仕することをヨロコビとしている。

退化びとは、所有することや奪うことにことのほかヨロコビを感じる。彼は宇宙の根源神とのつながりを塞いでいる。水道管はつながっているのに、みずから、蛇口を閉めたままなのだ。そして、独立している気でいる。まるで世界の中心が自分であるかのように思い振る舞う。してもらうこと、受け身になることが当然のように思い、奉仕されなかったら怒る。まるで駄々っ子のようだ。