マトリクスを乗り越えていく。

【2015.01~02の世相】   2015.02.18

 

昨日のツイートラインの活発化には、じぶんでも驚いた。発端は、「NHKが遂に金融封鎖の放送をした」ということなんですが。

金融封鎖がとうとう実施段階に来ているということを人々にも予感させたのだろうか。常日頃、金融関係のツイートは反応が皆無なんだが、昨日は違って反応があった。やたらリツイート・コメントも多かった。

 

水面下では、いわゆる集合無意識により、かなりの数の人々が危機感を鼻で嗅いでいるようだ。日本は金融破綻を隠して、やたら気前よくODAの大盤振る舞いをしている。だが、国家財政のたどる道は国民の金を用いた金融封鎖(収奪)以外にないとおもう。

 

金融封鎖および財産税(という名の収奪)により、預金が没収されるわけだが、幸運なことに国民の4割ほどのひとは預金が無い。貧困が進み、借金はあっても財産が無いのだ。では誰から収奪するか。1%とかいわれているお金持ちからだろう。その際は、彼ら支配者も財産の共食いになるんだろう。

 

戦後の金融封鎖では、資産家や名士たち、なかには皇族なども、相当な資産を召し上げられたらしい。(もちろん逆に焼けた駅前を占拠して私腹を肥やした某勢力もある)。国民の財産収奪といったって、ビンボー人にはあんまり関係なかったようだ。しかし、今回は環境が違う。

 

贅沢に飽きてきはじめたとおもう。モノ生産を追求する煩悩はもう国民にはないだろう。ホで環境はやられ、自給作物も汚染。6年目のタイムリッミットで多数が病死する。地域社会には高齢化と農業政策の悪化で百姓が存在せず、法人農業・付加価値農業ばかりで自給すらおぼつかなくなり食糧が入手できなくなるだろう。

若者は、さまざまな煩悩の刺激から離れていきつつある。

つまり、これからは、戦後のような「牧歌的な助け合い社会」、「闇市でなんか食い物が流通していたような社会」ではなくなっていくのだろう。共助という社会が存在しないのが今である。そういうなかで、預金封鎖が起きるということを覚悟しなければならないわけだ。

教えてください。貧乏暮らしの私ら、は、銀行のローンは、チャラに、なってなくなるの?

 
ハイパーインフレでそのときラーメン1杯1万円としたら、ローン2000万円が相対的に実質200万円程度に圧縮。ラーメン1杯10万円になったらローンは20万円程度に。ラーメン1杯100万円になればローンは2万円。みたいな・・・(笑)


国債による借金は1000兆円を超えている。3パーセントの利息なら、利子返還は30兆円だ。 税収は40兆円足らず。国債の償還分を入れれば税収をはるかに上回る支出となり。実質的には、国家予算にまわせる税収はゼロだ。 それでも国家というものが成立している。(これはマトリクスなのではないか)


そして、予算分を新たな国債発行(借金)でまかなう。すると、更に返せない借金が増えるのです。これって倒産ではないですか。借金は国債を発行して、それを日銀がお金を印刷して買い取る。タコが自分の足を食べてるのとおなじです。


年金もマクロ経済スライドとかわけわかんない屁理屈で、支払額が減らされる。徐々にきているから、国民の一揆も起きない。年金は国民が積み立てたものなので、ほんとうは私有物。国家予算とは別なんだが、国が運用と称して株を上げるため買って使い込んでしまった。


年金、積み立てたお金はどこに行ったのか。国家予算とは関係ない、国民の私有物を国家という超越的な権力体が恣意的に使い込んでしまった。厳密にいえばこれは、横領なのではないか。 


そんなゴタゴタのなかでも公務員共済という年金プールだけは、株の買い上げに使用していない。官僚がもらう年金の原資であるから、これが減っては自分が困る。自分が困ることはしない。厚生年金は自分が困らないから、株上げに利用する。自己本位の典型的な例です。


官吏という、国の官(つかさ)が、自己本位というモノサシで運営したらどうなるのか。政治家の汚職やスキャンダル利権を巡るあれこれなどは、いやというほどあったが、すべてが自己本位というモノサシでやってきた。原発も高速も空港もダムも港湾も自己本位ありきだった。


これから15年間、世界は大混乱に向かって進むが、それは、世界の運営が『自己本位』という価値観で行なわれてきたことの結末を我々が体験するということだ。日本の政治にしても、アメリカの強欲覇権主義にしても、『自己本位』そのものだ。世界中が『自己本位』で衝突してる。


世界が『自己本位』ならば、個人はどうなのか。個人も『自己本位』である。得意先も学校の先生も『自己本位』だから、それに対して防御するために『保身術』を叩き込まれる。勉強も就職も、一生という保身のために行なう。外界が『自己本位』だから仕方ないと。


文明の崩壊というとき、過剰に消費したり、資源を乱獲したり、ゴミを過剰投機したり焼却したりの悪行が、早く崩壊してほしいと期待する。だが、この文明として表現された現象が崩壊しても、モトはなくならない。モトとは、個人個人の『自己本位』にあり、そこが文明の悪行の原因でありましょう。


そもそも人類は独立した個として自己を認識しており、それゆえ人権とかプライバシーなどの概念が成り立ってきた。所有権もその概念の申し子だ。


だが、自然界は個体が分離しているようにみえて、じつは、すべてがつながり共助して循環している。人間は自然界を認識する根本が間違っている。


ヨガの行者とか、禅の僧とか、先住民族とか、そういう人々には共通したものがある。それは分離した個として自己を認識せず、自然界との関わり方も一環した連綿とつながる 同類として関わる。だから彼らには開発破壊という発想がなく、人間同士の闘争も葛藤もおきない。ヨガの行者とか、禅の僧とか、先住民族とか、そういう人々には『自己本位』という概念がないのだ。世俗文明からはそれを手放して出家する。先住民にはもともとそれがない。


だけど我々には、『自己本位』という思考が備わっている。それは、我々が地球において、『自己本位』というプログラムで生きることを体験しにきたんだと言える。時代は今とは違うとはいえ、起きている世の無常はおなじであり、ゆえに『自己本位』というプログラムで生きることに無常観を悟った先人は、出家し、お遍路になり、禅僧になり、洗礼をうけ、ドロップアウトした。『自己本位』の世界には宇宙の本質がないから。それを悟ったのだ。


社会のすべてが、『自己本位』でなくなるとき。神仏はそれをお望みであろう。いったん脳内にプログラムした『自己本位』を、自分で異物と認識することができ、そして、それを手放すことができたとき、それができた人類は次の文明ステージに立てるだろう。

自己本位の権化が1%層の核となるロスチャイルド財閥やロックフェラー財閥などの国際資本。

  これまでの常識では彼らが我々に寄生しているという。だが、本質は「自己本位な我々の極大版が彼ら」である。 レプタリアンは、我々に自己本位を植えつけた教師ですね。

 

ついでに、自己本位というときの「自己とはなにか」という問題について考えてみよう。ふつう、自己とは自分の肉体を指している。肉体を自己と認識しているわけだ。だから、自己本位とは独立した肉体自己への利益誘導であると言うことができる。


しかし、自己とは、個々に独立した自我意識でありながら、同時に、人類に集合的な共通霊魂でもあるという二重性を持っている、と仮定することもできる。霊魂そして霊魂の地下茎となっている集合的な共通霊魂があるなんて、ふつうは考えもしない。しかし、ほんとうの自己とは、個々に分離独立していない集合的な霊魂でもあるなら、自己本位とは、「自己認識のまちがい」といっても言い過ぎではない。


では、どうしてそれが「自己認識のまちがい」と言えるのだろうか。


ヨーギや禅僧とかの思考と価値観をみてみよう。

彼らは、瞑想をする。

そして、その瞑想で結果的に、顕在的・体験的に構築してきた自己を解体することになる。顕在的な自己とは自我のことであり、通常の自分とは自我が認識する自己である。だから、これは肉体とイコールであり、保身の対象であるわけだ。この自己認識を解体した所に彼らは、集合的な自己(=大我)が覚醒すると説く。


この世から競争や戦争がなくならないのはどうしてなのか?国家が自己本位で行動するからである。では、戦争のない社会にするには?ひとびとが自己本位を卒業して、もっと広い観点から大我で生きていける社会にすればいい。自己本位がなくなって、みな、他人や自然を家族のように扱う社会になる。そしたら、そこには貨幣もいらない。交易による利得もいらない。なぜなら、それは壮大な家族であり、他人は存在しないから。敵も存在しないから戦争がおきる理由がなくなる。


敵というのは、自己本位社会のなかで、保身をまっとうするためにつくりだした幻影(マトリクス)である。われわれは常識としてもっているこれらの概念に どっぷりつかっているから、ほんとうの自己というのは、個と全体の二重性をもっているといわれても理解できないだろう。しかし、人類は学びの段階のかなり終着点に来ている。ゆえに、そろそろ学びを終えて、次の霊魂のステージに上がっていかなければならない。そのためには、自己というものの認識をしなければならない。今までの間違った自己の認識を改めるために、自然界が意図した計画があるようだ。それは、強制的に文明や概念の破壊を起こすというものらしい・・・。


預金封鎖も、強制的に起きる文明や概念の破壊という見方で理解することができるかもしれない。

たとえば今のまま自己本位な価値観なら、人々は自分の財産を自由にすることができず、国家に召しあげられていく預金封鎖を、呪うだろう。


しかし、その呪いの本質は、『自己本位で反応してしまう自動プログラムのほうに問題があるのではないか』、と気づくことが、自己を知り自己を越える道程なのではないだろうか。そして、この破壊ついでに、『いっそ自己の内部の自動プログラムを書き換えてやろう』と小躍りする人はどれぐらいいるか。


日本と世界の混迷の原因は、個々の「自己本位な我」である。そして、無知な「自己本位な我々」が送り出したのが自己本位な政党である。その自己本位な政党が選んだのが自己本位な党首であり、自己本位な内閣、自己本位な首相につながっていく。


解脱とは、「自己本位な我」を抜け出ることであろう。そのためには、自己を「自己本位なもの」であったと認識することが必要だ。そのためには、自己の視点を自己内部からでなく、客観的な位置に設けねばならない。その位置はハイヤーセルフの視座である。つまり・・・自己客観ということは、ハイヤーセルフの自己に開眼することにほかならない。そして、その視座から自己を観照するとき、自分の半生が、つねに自己本位であったと思い知ることになる。だから、半生に反省なのである。


通常ひとびとは自己の存在意義を求めてやまない。存在を認められ評価されて満足したり不満に泣いたりする。つねに自己を他人の評価軸で規定しており、ス ポーツの採点も芸能人の歌自慢も他の採点に依拠している。成績もそうである。だが、自己を乗り越えるときそこに他の評価基準も乗り越えられていく。他人の評価で一喜一憂することがなくなる。


自己の価値を、金銭的に評価するというのも他人の評価軸なわけだが、それも乗り越えていく。だから、金銭によって価値づけられているもの、たとえば預金残高などは、自己とは関係ないものとして乗り越えていく。(ただ、市場経済では金銭と商品との価値交換のうえで金銭があるほうが便利というだけのこと)。


預金が封鎖されたとき、自己の価値を金銭で測って満足していたひとの自我は、苦しむだろう。お金持ちやセレブほど、この認識がつよいから・・・。


貧しきもの・・・汝は、しあわせなり。預金が封鎖されても、金銭で自己を測っていないならば、苦しむことはないだろう。